2017.02.23
[こころのライフワーク]Vol.03
〜死を研究することによって生を解明する時代に〜
ご好評いただいている新宿瑠璃光院のコラム『白蓮華堂便り』。今シリーズは、光明寺住職・大洞龍明著『こころのライフワーク』(主婦と生活社)から連載して参ります。皆さまの人生がより豊かになりますよう、お手伝いできましたら幸いです。
科学主義の発展と宗教の衰退
前回は、ささいな争いや喧嘩が、名門の一族や国すらも滅ぼすこととなった悲劇をご紹介しました。諍い、喧嘩、争いに費やす生き方が、「命のもつ可能性を大切にした」生き方ではないことをご理解いただけたのではないでしょうか。今回は、生と死の関係について考えてみたいと思います。
人間には「実践」「思索」「感受」という三つの能力があるといわれています。この三つの能力を象徴するものとして、実践=科学、思索=哲学、感受=宗教があります。現代社会を覆っているのは西洋文明といわれる科学技術です。その一つの到達点の例がクローン人間であり、臓器移植であり、さらには生産技術の発展による工業のグローバル化やそれによる地球環境の破壊。またある意味では、非行の低年齢化をもたらせたのも、近代科学主義の結果といえるかもしれません。
対して、思索(哲学)や感受(宗教)といった人の能力には、この数百年間、ほとんど進歩が見られていません。宗教にいたっては衰退の一途をたどってきた、といっても過言ではないはずです。科学主義を崇拝する人々は、宗教を時として「人間の実践(科学)にとっての障害」と見なしてしまうことすらありました。
生と死の境目はどこにある? ―― 科学主義の限界
数ある宗教のなかでも、とくに仏教は「生死一如(せいしいちにょ)」で生を生き、また死を受容する態度のことです。この観点を抜きにして、仏教は語れません。例えば、生物の死を科学の目で見れば一つの変化でしかないでしょう。動かなくなったのは、物理学上の変化。屍体が刻々と腐敗してゆくのは化学変化です。そこにはいずれにしろ「死」の実相はありません。
近代医学も科学である以上、脳波が止まったという物理的な変化で「死」を判断します。集中治療室の脳死の状態にある患者さんは、死斑が足から始まり、変色してゆきます。仏教的な見方をすれば、そこでは死が始まっています。しかし医学では、脳波がある限り「死」ではない。たとえ死斑が胸近くにまで広がっても、脳波があるかぎり「死」と判断されることはありません。
つまり、究極的な物理的・化学的変化が認められないかぎり、医学上は「生」であり、そうした変化によって人の「死」が判断されます。しかし、多くの人は、そこに直感的な違和感を感じます。むしろ医学の知識のない人の方が、高度な専門知識で身を固めたお医者さんよりも、そうした違和感を感じ取ります。それが「感受」です。もちろん、感受したからといって即宗教とはいえません。けれど、命というものの本質を直観している人であれば、「なにかおかしい」と感じます。
生だけ考えていても生はわからない
とはいえ、実践(科学)を否定してよいというのではありません。[こころのライフワーク]プロローグ~第二の人生を送るための準備~ でもご紹介した、仏教学者の故・鎌田茂雄先生のお話の中から、いま一度、引用させていただきます。
「東大出版会というのがあり、そこで雑誌を毎月出しているんです。最近その中で、生と死についての荘子(中国の哲学者)のことばが紹介されていました。荘子は『生と死は一つのものだ』といっている。これを引用しながら、分子生物学者で、人間の細胞の研究をされている先生が、こんなことを書いておられます。
細胞というのは恐ろしいもので、自分の良い細胞を生かすために、悪い細胞は自分からどんどん死んでいく。皮膚の表面でも、どんどん変わっているけれど、あとから生まれた細胞でも、それが悪い細胞なら先にどんどん死んでいく。なぜ、自分から死んでいくかというと、良い組胞を生かすためだというんです。生かすために死んでいくというんですね。
分子生物学の先生が、荘子がいっていることと同じようなことを書いておられる。
自然科学は、今までは、生を謳歌する学問、生をいかに延長していくかでありました。医学がそのいい例です。それが、自然科学者の責務であったわけですが、最近、大きく変わりまして、死から生を考えていく。死というものを自然科学で究めまして、それから生というものを考えていく。(略)自然科学者であっても、生だけ考えていても生はわからない。死から生を考えることによって、生きるという意味がわかってくるのだといっておられました」
どれだけ長く生きても、その先には死がある
引用が少し長くなりましたが、医者にとって死は研究の終わりですが、逆に死を研究することによって「生」を、具体的にいえば不老長生を解明できるというお話かと思います。
しかし、それもまた、実践(科学)の範ちゅうを超えるものではないでしょう。不老長生が行きつくところまで行きついても、やはり死があります。『旧約聖書ヨブ記』の主人公ヨブは百四十歳の天寿にめぐまれたと書いてあり、現代医学もそのあたりが人間の長寿の限界だと認識していると聞いています。百四十年生きても、やはり死がある。どんなに遠くまで石を飛ばしても、必ず地面に落ちる、それと同じことだと思うのです。
私たちは生きている限り、死から逃れられません。それゆえに、死について考えることは、すなわち、生を考えることと同義なのです。そして、生とはなにか、死とは何かを考え続けてきたのが宗教といえます。次回は、そんな宗教の役割について考えてみたいと思います。
【著者略歴】
大洞龍明(おおほら たつあき)
1937年岐阜市に生まれる。名古屋大学大学院・大谷大学大学院博士課程で仏教を学ぶ。真宗大谷派宗務所企画室長、本願寺維持財団企画事業部長などを歴任。現在、光明寺住職、東京国際仏教塾塾長。著書に『親鸞思想の研究』(私家版)、『人生のゆくへ』(東京国際仏教塾刊)、『生と死を超える道』(三交出版)など。共著に『明治造営百年東本願寺』(本願寺維持財団刊)、『仏教は、心の革命』(ごま書房刊)がある。